禁煙外来 時々ペットロスのこと

70歳に近い男がふとしたきっかけで禁煙に挑戦中のことなど

禁煙外来(第45日・第46日)

第45日(11月14日・月曜日)

 本日はスポーツジムも月曜定例休業日で、しかも家の恒例の掃除もどうも気力が出ずにウィスキーばかりを飲んでいたような気がする。そういう(アイちゃんにとっては悲しいだろうと思われる)自堕落な生活を2ヶ月続ける中、今日の午前中に少ししっかりとした契約書に自署しようとしたら、指先が震えてミミズ字を書くのが精一杯だった。

 煙草もそうだろうし、人間、それは当然弱い生き物で、アルコールにも溺れたいことがあることは否定しないけれども、周りには私を気遣ってくれる人が大勢いることも忘れず(感謝し)、しかもアイのためにも前を向いた生き方をしなければなあ、とつくづく感じさせられた一日でした。

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 8、9年ほど前になるが作家の城山三郎(しろやま・さぶろう)さんの『そうか、もう君はいないのか』という本を読んだ。

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 【城山三郎の遺稿を編集したエッセイ。妻の容子との結婚後、2000年2月24日の別れまでの日々について記されている。2008年、新潮社刊】(「ウィキペディア」による)。

 読んだ当時は、著者の奥様に対する深い情愛を強く感じさせられたことを記憶している。

 ところが今、この本のタイトルの「君」を「アイ」に置き換えると、まだまだ「そうか、もうアイはいないのか」と痛感させられることの多さに心が重くなります。

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 人間の弱い側面ばかりの話しで今夜は失礼させていただきますね。

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第46日(11月15日・火曜日)

 冒頭から私事で恐縮ですが、養父の告別式に参列して参りました。恥ずかしながら、この時も手が震えて参列者名の記帳ができませんでした(家内が代筆してくれました)。

 昼食時に熱燗を3合飲みましたが、煙草には関心がいきませんでした。

 で、本日もこれは禁煙というより恐らくはペットロスに関係した話題になりますが、このところメインテーマの禁煙外来について特別お話しすることもないものですから、単なる雑記としてお読みいただければ幸いです。

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 夭折(ようせつ)された高橋和巳(たかはし・かずみ、1931年8月31日~1971年5月3日)さんが『悲の器(ひのうつわ)』という、文学部の先生にしては深い法律的な教養を駆使した長編処女小説を残されています。私の愛読書の1冊でもありました。何しろ『悲の器』という言葉そのものに大変なインパクトを感じました。

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 この「悲の器」という言葉で思い起こすのは、かつて朝日新聞に毎日連載されていた、大岡信(おおおか・まこと)さんの『折々のうた』のある回に、歌人の大江昭太郎さんがお年を召されたお母様を詠まれた一首がありました。

〈かなしみを容(い)るる器(うつわ)の小さければ神はわが母にみみしひ賜(たま)ふ〉

「みみしひ」は耳が聞こえないこと(goo国語辞書)。

 つまり、悲しみを受け入れるための心の容器が小さいので、辛い話や切ない話をもう聞かなくても済むように、神様は母の耳を遠くしてくださった、というような意味だったと思います。神様が「みみしひ」「賜ふ」という表現にこれを詠まれた歌人の慈悲深さのようなものを感じました。

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 人の心の中にある悲しみの器って、どの程度までなら保(も)つのでしょうかね。

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